「札幌から羽田まで飛行機。羽田のホテルで1泊して翌日の試合に出る。」
プロ野球選手のスケジュールではありません。
ただ草野球の試合に出るために北海道から馳せ参じる男。それがYAMAです。
僕が野球SNSで選手募集を始めたのは2009年6月の事。募集開始からひと月は全く応募がなく、チーム結成も半ば諦めかけていました。そんな時、初めて応募の連絡をくれたのがYAMAです。2009年7月22日、その日はバンディッツの実質的なスタートとなりました。
やたらと前向きな関西人は僕に勢いを与えてくれました。「彼を路頭に迷わせるわけにはいかない」そんな気持ちから、僕のページに「足あと」を付けた人には片っ端から声を掛けました。不思議と応募も増え、それからのひと月でさらに6人が入団。9月6日の初練習には11人の選手が集まりました。
YAMAに会うのはその日が初めて。初練習で守備用手袋まで揃えてきたところに彼の本気度を感じました。豪快かつ精度の高い打撃、軽快な守備、そして周りを明るくするそのキャラクターはチームの中心となるにふさわしいものでした。
1年目の2010シーズンは中盤まで1番打者として活躍。その後は4番に入り公式戦9試合で打率.364 1本塁打 6打点 出塁率.563。OPSは圧巻の1.153を記録しました。
若手でありながら人望が厚く、結果も残したYAMA。シーズン中、選手の起用法に悩んでいた僕はその年の忘年会で選手起用の全権を彼に委譲しました。バンディッツが今でも代表者である僕以外の人(当時は「ゲームキャプテン」。2014年以降は「監督」)が選手起用と戦術を決めているのはこれが始まりです。
2011シーズンはゲームキャプテンと中心選手の役割を見事に両立。戦術面を彼に譲り、運営面のみを気にすれば良くなった僕はずいぶんと気が楽になったものです。
2012シーズン、チームの歴史にとって重要なシーズンとなったこの年もゲームキャプテンを務めたYAMAは開幕から好調を維持。試合を決定付けるタイムリーを次々と放ちました。
8月26日、全勝同士の対決を制し、チームは関東草野球リーグ5部J組で優勝。10月28日に行われるプレーオフ(5部各組のチャンピオンが集うトーナメント戦。決勝の舞台は西武ドーム)へと駒を進めました。
そんな中、プレーオフの1ヵ月前にYAMAの転勤が決定。
翌週には北海道へ引っ越しをするという急な展開でした。
これが冒頭のくだりへとつながります。
せっかく北海道から帰ってきてくれたのに、結果は1対14の惨敗でした。
悲願の西武ドームに手が届かなかった事(あと2勝!)も勿論悔しかった。でも、それ以上に悲しかったのはYAMAとの最後の試合が、この1年を否定される程に壊れてしまった事でした。
それでも、YAMAと過ごした日々は決して色あせない。
炎天下の試合、ビッグイニングを作られ熱中症寸前の状態になったYAMA。あの時のおかしな様子は今でも語り草です。
バイクが故障して試合に遅刻したYAMA。チームは不戦敗になったけど、君を責める選手は誰もいなかった。
面倒な作業や、責任を伴う仕事もイヤな顔ひとつせずに引き受けてくれたYAMA。職場でも重用される君の姿が目に浮かびます。
みんなから愛されたミスターバンディッツ。ススキノでのお遊びはほどほどにね。